ADHD(注意欠如・多動症)
子どもの頃から続いている・・・
①注意欠如:一つのことに集中することが苦手で、聞き洩らしやケアレスミスが多いなど
②多動:じっとしていることが苦手で、授業中に動き回ってしまうなど
③衝動性:自分のやりたいことを抑えるのが苦手で、突発的なことをして後で後悔するなど
・・・という性質のことです。現在は、これらの性質を和らげる薬が複数開発されています。
実は、何を隠そう私もそういった傾向があり、授業中に歩き回ることまではしませんでしたが、貧乏ゆすりは激しかったですし、授業も最後まで聞けた覚えがありません。
忘れ物は毎日のように(決して忘れずに?)こまめに続けてきましたから、学校に着いたときに初めてランドセルを自宅に忘れてきたことに気づくことも、自宅に帰ったときに初めてランドセルを学校に忘れてきたことに気づくことも、1度や2度ではありませんでした。
それでも、家族や友人に恵まれて、お互いの足りないところをフォローしあう関係のなかで、自分自身の不注意や忘れやすさについては、フォローしてもらったり、補ってもらったりしてきました。
もちろん自分自身でも様々な工夫をしてきました。たとえば、持ち運びするものを最小限にしたり・・・
予定やTo Do リストを自力で覚えることは早々にあきらめて、メモをつけることを習慣にしました。
つまり自分のことは一切アテにせず、メモに完全依存することにして、(自分の代わりに)メモに覚えてもらうようにしたワケです。
というのも私の経験では、どこかで自分への信頼を捨てきれず、部分的にでも自分任せにしていたら、自分は今度はメモをすることを忘れてしまいますからね。だからメモに完全に丸投げにしておくのがポイントかなと思います。
こんなふうに周囲のサポートと自分自身の努力の組み合わせで試行錯誤しているうちに、とりあえず仕事上はどうにか欠点を克服し、今ではむしろ、ケアレスミスや漏れのない几帳面な仕事ぶりができるようになりました。
もっとも、ADHDの特徴というのは年齢を重ねるなかで目立たなくなることも多いので、単純に年齢を重ねた影響もあるのでしょう。とはいえ私生活ではいまだに・・・これについてはみなさんのご想像にお任せします。
一方で、どんな性質にしろ、ネガティブに作用してしまうこともあれば、ポジティブに作用することもあるので・・・
だから、たとえネガティブにしか見えない性質であっても、工夫次第で、それをポジティブに利用したり活用したりできる可能性が残されているものです。弱みを強みとして生かすワケですね。たとえば・・・
あちこちに飛ぶ散漫な注意力というのは、一方では、普通は考えないような奇想天外な組み合わせを思いつくこともできるということでもあるので、私は幼少の頃から新しいアイデアを出すのは得意でした。
それから不思議なことに、うまくスイッチが入ると逆に何時間でもひとつのことに取り組めることもあるので、そんなときには思いっきりその作業に取り組むようにしてきました。
私は高齢者の病院に勤めていたときには認知症についての講演会を、教職員の病院に勤めていたときには教員のメンタルヘルスについての講演会を、それから最近では、カウンセリングの技法についての講演会をすることをしてきましたが、「今まで聞いたことのない斬新な話だった」という感想をよく言われます。
細かなデータを地道にとることは生理的嫌悪感を感じてしまうほど苦手なのですが、その分、アイデア勝負のジャンルで成果を引き出すことで、何とかこうして挽回をはかってきたワケです。
ところで、私の幼少期にはADHDという言葉はまだなかったので、当時の私は、単なる「落ち着きのない忘れんぼさん」と思われていました。もちろんADHDの薬を使ったこともありません。
それでもこうして何とか大人になれたワケですから、世間で「ADHDはただの性格の一種に過ぎない。だから治療の対象にするべきではない。ADHDの薬は危険で有害無益だ」という話が出てきても、まあ、確かに、そういう一面もあるのだろうなあと納得できるところがあります。
そもそも昨今の精神医療は何でもかんでも薬物療法に頼りすぎだ・・・という批判もありますし・・・
しかし、「障害ではないんだ」という主張は、たとえそれが善意から発せられた言葉だとしても、一歩間違えれば、「だからいろんな困った言動をするのは、要するにこの子自身が悪いんだ!」とか、「この両親の育て方が悪いんだ!」とか、「この教師の教え方が悪いんだ!」という主張に結びつきやすいものです。
そうなると、関係者たちが「相手のせいにして相手を責めなければ、今度は自分のせいにされて自分が責められる」という危険な関係に陥ります。
そして本当は子どもの幸せを願っている仲間同士なのに、本来は協力しあえるパートナーだったハズなのに、問題の責任を押し付け合うのに必死になってしまい、子どもの幸せのことを考えるゆとりを失い、ケンカばかりに明け暮れることにもなりかねません。
これに対して、ADHDという障害を作ることによって、「この子が落ち着きがなくて毎日のように欠かさず忘れんぼをしているのは、やる気がないとか、マジメさが足りないとか、ふざけているとか、そういうことではなくて、つまりこの子が悪いのではなくて、脳の問題に過ぎないんだ」と言われたらどうでしょうか。
それは私にとっても、両親にとっても、学校の先生にとっても、「ああ、自分のせいでも、相手のせいでもないんだ」という救いになることでしょう。そしてADHDという共通の課題を前にして、私も両親も学校の先生も、お互いに協力しあえるようになることでしょう。
しかし、とはいっても、薬を使うことについては、それでも賛否両論があるのは確かです。
私は「何が正しいのか?どうするべきなのか?」についての判断に迷ったときには、プラグマティズムの発想法を大切にしてきました。
それは、「目の前の患者さんにとって、役立つものを、役立つ範囲で、役立てていく」という発想法のことです。
薬を使うべきかどうか?
あなたの場合にはどうでしょうか。
何が正しいのかにこだわるよりもプラグマティズムの立場で、つまり、役立つものを役立つ範囲で役立てていくというやわらかな心で、一緒に考えていきましょう。